先般、日本と米国で銃を使った事件が相次いで起きました。
米国はヴァージニア工科大学で32人もが殺害され、犯人の留学生は自殺しました。日本の事件は、伊藤一長市長が選挙運動中に射殺され、東京・町田市では銃でひとりを射殺して立てこもるというものでした。米国の事件は犯人が自殺していることもあって、真相の究明はなかなか難しいかもしれませんが、私にはvirtual(仮想)とreal(現実)の区別がつかなくなったのでは、という気がしています。一方、日本のふたつの事件は、いずれも暴力団組員の犯行で、背景はそれなりに分かるのですが、日本で拳銃を使った事件が起きてもそれほど驚かなくなっている社会にあらためて気づき、政治家としてこれでいいのか、と自問してもいるところです。
かつて「テロ」は、政治・体制に対するものがほとんどでした。ところが今は、一般社会に対するものに変わってきているように見えます。このことは、大きな問題点を示唆していると思うのです。米国では合衆国憲法修正第2条で、個人が自己を守るべきために手段を講じることを権利として認めています。議論のあるところですが、銃の所有が認められる根拠とされている条項です。これに対し日本では、もちろん個人の銃の所有は基本的に認められていませんし、今国会では、銃ではなくても殺傷能力が認められるものの所持を禁止する法改正案が審議されているところです。
与党・自民党の政調会長として、私は今、立法の素案を取りまとめる立場にあります。国民の豊かな日々をつくるためのこの役割を、いかにまっとうしていくべきか、いろいろと考えていきますと、憲法や法律を時代にマッチさせていくことが重要と感じさせられます。
このたび私の下に「緊急医師不足対策特命委員会」と「集団的自衛権に関する特命委員会」を発足しました。「特命委員会」とは緊急かつ重要で担当横断的な政策課題について私の直属で行うものです。他に拉致問題対策特命委員会等がありますが、医師不足は極めて重要であり、早急に対策を講じます。
先の統一地方選では自民党も民主党も、ともにめいっぱい頑張ったと思います。しかし、勝利したのは「政党支持なし層」が支持した候補だったといえるでしょう。ただ、それは民意が本当の意味で反映された結果といえるのかどうか――。日本では投票は「権利」です。しかし、ベネルクス三国(オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ)や多くの南米諸国は投票が「義務」と定められ、投票に行かなければ罰則適用の国もあります。
おりしも5月3日は憲法記念日。私たちの憲法が施行されてちょうど60年、人間の齢(よわい)で言えば還暦に当たります。この区切りを迎えた憲法記念日を機に、憲法のあり方、法律に求められるものなどを、私なりにじっくりと考えてみたいと思っています。